「地下室の手記」(光文社古典新訳文庫)ドストエフスキー 安岡 治子

 言うまでもなく、友人たちとの親交は長続きしなかった。あっという間に仲違いし、若気の至りでまるで絶好でもしたように連中に挨拶することさえ止めてしまった。もっとも、そんなことは、たった一度きりのことだったのだが。そもそも俺は、いつも一人ぼっちだったからな。
 家ではもっぱら読書三昧だった。外からの刺激で、己の内に絶え間なく煮えたぎっているもののすべてをなんとか抑えこみたかったのだ。そして俺にとって実行可能な外からの刺激と言えば、読書しかなかったのである。もちろん読書は大いに役に立った。興奮も、喜びも、苦しみも与えてくれた。しかし、恐ろしいほど退屈な時もあった。
95,96p


虚しくて悲しい小説でした。



主人公がとにかく嫌われる人間で眉をひそめたくなる行動や、あきれてしまうような発言ばかりします。ここまで性格が曲がってしまっている理由はよくわかりません。犯罪を犯すわけではないのですが、モラルの欠如がはなはだしいです。ほんとうにどうしようもないだめな人間です。


誰しもこの主人公と同じような一面を持っていると思いますが、この主人公ほどひどくはないでしょう。


なぜこんな人間になってしまったのでしょうか。なぜこんな人間なのでしょうか。


生きていることが不幸であるかのような生活。


私が考えるに、この主人公は何をしても怒るのだろうと思います。怒ることに理由があるわけではなく、理由もなく怒ってしまう。プライドが高いけど、何もできないダメなやつ。


友達もいない、出世もしない、恋人もいない。貧乏で、卑屈で、プライドが高い。常にイライラしていて、頭の中で嫌いな人間に仕返しすることを考えているけれど、臆病なのでできない。頭の中では他人を見下しているけれど、態度に示せない。誇大した自己に耐えられず、暴言を吐いてみるけれど、相手にされない。暴言を吐いても相手にされないので、さらにイライラする。





私は、すべての人間が幸せになってほしいと漠然と願っていますが、この主人公のような人間を幸せにする方法は思いつきません。このような人間を救ってくれる人間(社会)は存在するのでしょうか。


そもそも、この主人公にとっての幸せはどこにあるのでしょうか。


もしかしたら、この主人公は「怒ること」自体が幸せで、それ以外の行動に自分の価値を見出せなくなっているのかもしれません。仮にそうであったとしたら、この主人公を救うことはできないのかもしれません。救おうとするだけ無駄で、常に犯罪予備軍として社会から監視され、管理される立場で居続けなければいけない存在なのかもしれません。このような人間は存在している理由もなく、存在している価値もなく、邪魔な存在でしかないのかもしれません。誰の利益にもならないし、迷惑ばかりかける。


私はこの主人公の人間としての価値を見出せませんでした。




しかし、社会にはこのような人間が存在していて、今もどこかで生きているのでしょう。



そんなことを考えると、虚しいですね。



とにかく虚しい本でした。