大学へ行ってよかったと思う
今週のお題「私のタラレバ」
「たられば」とは、事実とは関係がない仮定の話で「してもしかたがない話」という意味で使われています。
あのときああなっていればということはたくさんあります。いろいろあるので、思い出すとなんだか悲しくなってきます…。
ああなっていればということは、過去に対してネガティブな感情があるということだと思います。
後悔していることをやり直したい。
でも、私は後悔していることではなくて、あえて幸せなことのタラレバを考えてみました。
後悔していることではなく、幸せなことと向き合うことで、自分を肯定したいと思います。
最近、世界の貧困についての本を読みました。
http://gowalk.hatenablog.com/entry/2017/01/11/230000
世界には貧困があふれていて、日本はとても恵まれている国なのだということがよくわかります。
しかし、日本にも相対的貧困というものがあり、恵まれている人間と恵まれていない人間が存在します。
私は、どちらかといえば恵まれている側です。働いていないのにもかかわらず生活ができています。
本などを買うお金は私の貯金から出していますが、生活費は家族に払ってもらっています。インターネットの代金・食費・光熱費・家賃など…。
しかし、仮に私が相対的貧困層の家庭であったらこんな生活はできません。おそらく、つらい思いをしながら働いていると思います。
相対的貧困層の家庭だったら
私が相対的貧困層の家庭であったら、大学へ行くことなく高校を卒業して働いていたと思います。大学の学費は高いので、大学へ行って勉強するくらいなら高卒で働こうと考えたでしょう。親族にあまり大卒とかいないですし、大卒と高卒で人生がどう変わるのかよくわかっていませんでした。今でもそうですが、学歴に興味がありません。
高卒で働いていれば、今のようにニートになっていなかったかもしれませんが、確実に無知な人間になっていました。そうなると、ブログを書くこともなかったですし、本を読むこともなかったですし、賢い人(政治家とか大学教授とかジャーナリストとか)の名前を一人も知らないで生活していたと思います。テレビを適当にみて、ゲームをして、だらだら生活をしていたと思います。
当たり前なのかもしれませんけど、ニートになってから社会に対する知識がかなり増えました。はてなブックマークという存在をはじめて知りましたし、ツイッターに知識人がたくさんいることも知りましたし、テレビで報道されていない情報が大量にネットにあることも知りました。
これは、大学へ行ったことが少なからず影響しています。大学時代に学んだ知識によって、リテラシーが高まっていたからです。大学へ行かないまま働いていたら、知識を増やすことはできなかったと思います。
どうやって知識を増やせばいいのかわからなかったですし、知識を増やしたいとも思わなかったと思います。無知であることが普通。
高校生までの私はテレビの知識がすべてでした。新聞は多少読んでいましたが、難しくてよくわかりませんでした。相対的貧困層であれば家に新聞もないかもしれないので、情報源はテレビだけだった可能性もあります。
この文章を書くまで、自分は大学へ行った価値があったのかどうか疑問でしたが、間違いなく価値はありました。知識の量が全然違います。
今の私がこんなに本を読んでいるのは大学へ行ったからですし、論文という存在を知ることができたのも大学へ行ったからですし、英語の文章が多少読めるようになったのも大学へ行ったからです。
貧困は自己責任とか言う方がいますが、想像してみると、知識がなければ貧困から脱するのは難しいです。自己責任ではどうにもなりません。
知識のある誰かが助けてくれないと貧困から抜け出すのは難しいということを、この文章を書いてみて感じました。