「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)玄侑宗久

 ちなみに日本では、「般若」というとあの角の生えたお面を想いだす方も多いかと思うが、あれは女性の嫉妬の究極を表したお面で智慧とは何の関係もない。ただあのお面を得意とした彫り師が般若坊という名前であったため、「般若のお面」と呼ばれたに過ぎない。ゆめゆめ混同しないでいただきたい。

13,14p


知らなかった…。あれは女性の嫉妬を表現していたのですね。



 諸法すなわちあらゆる現象は「空相」であって、それは生じたり滅したりもしないし、垢がついたり浄らかであったりもしないし、増えたり減ったりもしない、ということでしたね。

77p

 どのポイントを「生」とし、どのポイントを「滅」とするのか、またどこ以上を「浄」とし、どこ以下を「垢」とするのか。「増」と「滅」は傾きで明らかかもしれませんが、連続している以上その分岐点は明確にできないはずです。また実際はうねりが無数に交錯していますから、一つのうねりを取り出すことじたい、すでに全体性ではありません。
 しかし脳は、こうしたはっきりした概念の物差しで単純化して事態を把握したがる、ということなのです。
 「わかる」というのは「分ける」ことによって成り立ちます。
 分けられない「空」を、わかるように分けて固定化したのが「色」です。

78p

 色は空に異ならず、空は色に異ならず、しかも色即是空で空即是色なのだと、私は申し上げたはずです。これ、ご理解いただけたでしょうね。
 要するに全ての現象には「自性」というものがなく、「縁起」のなかに発生する流動的事態。「諸行無常」で「諸法無我」だからこそ、実相は常に私たちの脳の認識である「色」を超える。そういうことだったと思います。
 「色」という物質的現象が、いかに本質においては「空」であるか、それはくどいほど申し上げました。だから「色即是空」です。
 しかし、それでも、本質が「空」であるからこそ物事は変化して関係を持ち得る。しかも、だからこそ「縁起」のなかで「色」として発現できる。それが、「空即是色」ですね。
 だから「空は色に異ならず」。「空性」と「顕現」は別物ではなく、また「色は空に異ならず」。「顕現」を支えているのも「空」なのだと申し上げたはずです。
 つまり、私は、「空」というのは「いのち」のまま、「色」というのはそれに脳が手心を加えた現象なのだと申し上げてきたつもりです。いや、脳というより、「私」と云うほうが正確ですね。

153,154p


なんとなくわかりました。すべては空なのですね。ほとんどの人は空を理解できないので、理解しやすくするために色をつけて分けている。なので、色即是空である。色はそもそも空である。


全体を理解する=空を理解する


空は本来分けられないものだが、脳が理解するために色として分けている。色に悩むのが人間。



 だって「恐怖」も「私」が感じていたのですから当たり前ですね。自分の都合を第一に考え、概念で念入りにでっちあげた「私」が勝手に「恐怖」を感じたり「死にたい」と思ったりする。本当に人間の脳って厄介ですね。しかしそんな「私」の思いを真に受けて、本当に自殺したりするんですから笑ってもいられませんね。
 死にたいと思ったら、ビルから飛び降りるとか電車に飛び込むとか、あまり確実な方法を選ばずに、一度水にでも飛び込んでみればいいと思いますよ。すぐにわかるはずですよ。死にたい「私」に関係なく、「からだ」は藻掻くでしょ。「死にたい」なんて思ってたのは「私」だけだった、脳細胞の一部だけで、ほかの細胞はみんな生きたがっていたって、すぐに判明してしまいますよ。
 だからこの「私」を「いのち」そのものと錯覚したり、あるいは「私」の思いで「いのち」や「からだ」を支配しようというのが、一番困った勘違いなんです。難しい言葉で云うと「顚倒夢想」ですね。

159,160p


自殺未遂のすすめ…?


私も死にたくなったら海にでも行こうと思います。仮に死ぬとしたら、死体の処理に手間がかからない方法を考えてから死にたいですね。


感想


死ぬ間際になったら宗教にでも頼ろうかなと考えていますが、私は今のところ死にそうにないので、宗教は必要ないです。成人してから神様を信じられなくなったので、初詣とかも行かなくなりました。お墓参りは仕方なくやってます。(本当は面倒くさい)


般若心経のなかに「この咒文は世の一切の苦悩を取り除くことにおいて、まさしく真実であるし、一点の虚妄もないのである。」という文章がありました。




本当か?