「現代語訳 学問のすすめ」(ちくま新書)福澤諭吉 齋藤孝 を読んだ感想その16

 元来、人間の本性というものは付き合いを好むものだが、習慣によっては、かえってこれを嫌うようにもなる。世に奇人変人として、わざわざ辺鄙なところに住んで、世の中との交際を避ける者がいる。これを隠者という。あるいは、真の隠者ではなくても、世間の付き合いを好まず、家の中に閉じこもって、「俗世間の塵を避ける」などといって得意になっている者もいないではない。

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俗世間の塵を避ける(キリッ)


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 こういう人たちの思いを察するに、必ずしも政府のやり方を嫌って引きこもっているわけではなさそうである。その心が臆病で弱く、物事に接する勇気がなく、その度量が狭くて、人を受け入れることができない人たちなのだ。人を受け入れられなければ、向こうもこっちを受け入れてはくれないので、向こうは一歩遠ざかる。とどんどん遠ざかって、最後には互いに違った者同士となる。その後は、敵同士のようになってうらみを抱きあうようになることもある。世の中にとって、大きなわざわいである。

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人を受け入れることができない人というのは間違いです。人を受け入れることはできます。受け入れてくれる相手に出会えなかったのが正しい解釈です。


心が臆病で弱く、物事に接する勇気がなく、その度量が狭いというのは否定しません。


しかし、うらみを抱きあうようになるのはお互いに悪いのでは?片方が一方的に悪いのに、うらみを抱きあうことはないと思います。片方だけに責任を押し付けるのは間違っています。



 物事の相談では、伝言や手紙ではうまくいかなかったことでも、実際に会って話し合ってみるとまるく治まることがある。また、「実はこういうわけなんだけど、まさか面と向かっては言えないしなあ」というような言葉がよく聞かれる。これは人間の真実の気持ちである。人間には相手を思って我慢する心があるのだ。我慢の心があれば、お互いの気持ちは通じ合って、怨望嫉妬の念はたちまち消えてしまう。

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昔は伝言や手紙で起きていたことが、今はネットで起きている気がします。ネットでは強気の物言いをしているけど、実際に会ってみるとそんなことはないという例は、探せばたくさんありそうです。


面と向かって人に何かを言うのは難しいですよね…。私はネットをしていてムカつくことはないので、文句を言いたいということはないですが、話し合ってみたいと思うことはあります。


でも実際に会ったら一言も話せないまま終わりそうです…。(¯―¯٥)





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