「イデオロギーの崇高な対象」(河出文庫)スラヴォイ・ジジェク 鈴木昌

気になったところを勝手に引用します。


われわれは、根源的解決をめざすという意味では「根源的」であってはならない。われわれはつねに借り物の時間の中で隙間に生きているのであり、すべての解決は暫定的・一時的であり、いわば根源的不可能性を先延ばししているだけである。

No.207

潜在的な夢思考」には「無意識的」なところなど何ひとつない。

No.282

この欲望の唯一の場所は「夢」という形態の中である。夢の真の主題(無意識的な欲望)は、夢の作業の中に、すなわち夢の「潜在内容」の加工の中に、あらわれるのだ。

No.309

交換過程の社会的現実性は現実の一部であり、それに参加している人間がそれの本来の論理に気づかない場合にのみ存在しうる。すなわち、その存在論的整合性が、その参加者たちのある種の非知を含んでいるような現実である。もし人が「よく知っている」ようになり、社会的現実の真の機能を見抜いたならば、この現実は霧散してしまう。

おそらくこれが「イデオロギー」の基本的次元である。イデオロギーはたんなる「誤った意識」、つまり現実の幻覚的表象ではなく、その現実そのものである。それはすでに「イデオロギー的」なのだ。「イデオロギー的」なのは、参加者がその本質を知らないことを前提としているような社会的現実である。すなわち、その再生産のためには人間が「自分が何をしているのか知らない」ことを前提するような、社会現実性である。「イデオロギー的」なのは、(社会的)存在の「誤った意識」ではなく、その存在そのものである。その存在は「誤った意識」に支えられているのだから。

No.475

「かならず人間どうしの相互関係としてあらわれるのではなく、人間どうしの社会関係が物どうしの社会関係の形によって偽装される」── これが、資本主義社会に特有の「転換ヒステリー」の症候の正確な定義である。

No.608

真の悪とは、この世界に悪しか見ない無垢なまなざしである。

No.625

人は貨幣を使うとき、そこには魔術的なところなど何一つないことをよく知っている。貨幣はその物質性において社会的諸関係の表現に他ならないのだ、と。日常的な自然発生的イデオロギーは、貨幣を、「それを所有する者は社会的産物のある一定部分にたいして権利がある」ということを示すたんなる記号に還元してしまう。それで、日常的なレベルでは、人は、物どうしの関係の背後には人間どうしの関係があるのだということをよく知っている。問題は、彼らの社会的活動そのものにおいて、つまり彼らがやっていることにおいて、彼らは、まるで貨幣がその物質的現実性において富そのものの直接的具現化であるかのように活動しているということである。彼らは、理論上ではなく実際的に、物神崇拝者なのである。彼らが「知らない」こと、彼らが誤認していることは、かれらの社会的現実そのもの、つまり社会的活動 ── 商品の交換という行為 ── において、彼らが物神的な幻想に導かれているということである。

No.727

イデオロギーは、われわれが堪えがたい現実から逃避するためにつくりあげる夢のような幻想などではない。イデオロギーはその根底的な次元において、われわれの「現実」そのものを支えるための、空想的構築物である。

No.1095

イデオロギーの機能は、われわれの現実からの逃避の場を提供することではなく、ある外傷的な現実の核からの逃避として、社会的現実そのものを提供することである。

No.1101

ラカンの見方によると、もっとも「狡猾な」イデオロギー的手続きは、永遠化などではなく、むしろその反対物、すなわち速すぎる歴史化である。

No.1219

もし速すぎる普遍化が、その歴史的かつ社会-象徴的決定からわれわれの目をそらすための似非普遍的イメージを生み出すとしたら、速すぎるえ歴史化はわれわれを、さまざまな歴史化/象徴化を通じてつねに同じものとして回帰する現実の核にたいして盲目にするのである。

No.1226


もっと引用したかったのですが、制限があってできませんでした。「出版社がこのタイトルに設定したコピー制限に達しました。」という表示がでてきました。著作権で、コピーできる分量が決められているようです。







この本に興味のある方はこちらのサイトの解説を読まれるとよいと思います。私がコピーできなかった図が描いてあります。

ラカン理論のインストール手順 3 | OVERKAST ROUGHKUT







内容は面白かったのですが、完全に理解するのは難しそうですね…。誰か分かりやすく解説してくれないかなぁ。


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