「自殺の歴史社会学」(青弓社)貞包英之 元森絵理子 野上元


気になったところを勝手にまとめます。

1900年の初め頃「厭世」という曖昧だが本人の内在的な意思を原因とみられる自殺が、藤村操の模倣という枠を離れ、急増していった。
 50年代には「病苦」を抜き、一時的ではあるが「厭世」は自殺動機の1位にまで上り詰めた。
 入院または私宅監置を受けた精神病者の割合は、1920年代以降ゆるやかに高まった。しかし、実数で見れば、入院や私宅監置の対象とならなかった者の数は減少するどころか、逆に増加していた。
 その理由は、第一に精神病院の設置が不十分だった、第二に医療技術的に精神病の治療に有効な手段が見出されなかったから。
 そのせいで、20世紀前半は医師の手当てを受けられない、またはそれを拒む精神病者が大量に病院外に残された。それは自殺者も同じだった。
 精神病が原因であると疑われながらも、そうとは確証しがたい自殺の多くが組み入れられていったのが、厭世自殺だった。
 内閣統計局と警察庁の自殺統計のデータに乖離があったのは、警察統計が警察の捜査に基づいていたのに対して、内閣統計局の統計がおもに家によって自己申告されたものだったから。
 戦前期に相対的に大きな力を保った家は、家人の死を自殺でないものとして主張したのであり、そのための内閣統計局の統計では自殺は少なく記録された。
 厭世自殺は、家と警察、さらにはそれを報道するジャーナリズムとの利害関係のいわば妥協点だった。
 死の理由を社会や他者のせいにせず、自己の弱さや不安に還元してみせるという意味で、厭世自殺はしばしば自分で自分のケガレや怨念を取り除く寡黙な自己鎮魂的行為として役立った。

近年の自殺では中高年男性が増加し、その割合も増している。その理由として生命保険の普及がある。
 定期付養老保険はインフレ耐性の強い商品だったので、大きな人気を呼んだ。
 死を代償としてまで借金を返済することは、少なくとも借金の当事者以外に対しては法的に制限され始めている。
 金銭の償いは、経済的な代償となるだけでなく、自殺の責任追及をやめ、一定の社会的な「解決」をもたらすという役割を果たす。生命保険、または過労自殺での労災は、あえて異論を唱えなければ経済的な利益を生む機会となることで、それ以上の責任の追及を停止させてきた。
 生命保険の加入を前提とした自殺が、高度経済成長以降の社会の急速な発展から取り残された人々に対して一定の役割を果たしてきたことを認める必要がある。(略)社会を見返す復讐の機会をたしかに保証してきた。

「過重労働=過重疲労→死」から「過重労働=過重疲労→精神障害による自殺念慮→死」という解釈になったことで、「自殺は被害者の自由意志による選択であり、加害者は責任を負わない」から「過労自殺による死も業務起因の損害として企業の責任を問える」ようになった。
 この過労自殺についての歴史的判決が2000年3月14日の「電通過労死自殺判決」である。

「いじめは自殺に結び付くような恐ろしい問題である」という認識が人々の間に漠然と存在する。だが、実際のいじめ自殺の件数は少なく、統計上最多だったのは2013年の年間9人。
 子どもの自殺も「いじめ→精神障害」という解釈になれば、責任を問えるが、現在は意志という制度的フィクションを解除できずにいる。



以前読んだ本で、経営者の自殺を止めるためにはまず生命保険を解約することだという記述がありました。生命保険は自殺に対するインセンティブを与えてしまうからだそうです。(「強いられる死」斎藤貴男)

お金によって家族を救うことは立派なことのように思えますが、お金より命のほうが大事だと思います。綺麗事と言われるかもしれませんが…。



子どもの、いじめによる自殺が2ケタに満たないというのは驚きました。もっと多いと思っていました。暗数を考慮に入れてもそれほど多くはならないそうです。

裁判では、自殺者が精神障害だと認められれば加害者の責任問えるそうです。自殺した子どもが精神障害になっていたという解釈がされないと、加害者への責任を問うことは難しいようです。子どもも精神障害になるという考え方が広まってほしいです。



ためになる本でした。