「夜と霧」V.E.フランクル 池田香代子 を読んだ感想


「夜と霧」がどんな本なのかの説明はいらないと思うので、省きます。知りたい方はググって下さい。


気になった部分を引用させてもらいます。


わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。



収容されて数日で、ガス室はおぞましいものでもなんでもなくなった。彼の目に、それらはただ自殺する手間を省いてくれるものとしか映らなくなるのだ。



つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。



クリスマスの季節が近づいても、収容所の新聞はいっこうに元気の出るような記事を載せないので、被収容者たちは一般的な落胆と失望にうちひしがれたのであり、それが抵抗力におよぼす危険な作用が、この時期の大量死となってあらわれたのだ。



わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにをなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。



いっぽうは天使で、もういっぽうは悪魔だった、などという単純化はつつしむべきだ。(略)つねにその人個人のなせるわざ、その人のモラルのなせるわざだった。


特に112ページと113ページの文章は考えさせられました。

彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。(略)


行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。(略)


わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖(ぎょうこう)に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。


この2ページに書かれた文章は、確実に私の人生に影響を与えました。この考え方が正しいのか間違いなのか、これから悩み続けることになると思います。



本の帯に"永遠のロングセラー"と書いてありました。これが永遠になるか、永遠ではなく同じような本が産まれるかは誰にもわかりません。少なくともユダヤ人・精神科医という肩書で書かれることはないと思います。




人生で一度は読むべき本だと思いました。


「夜と霧」(みすず書房)V.E.フランクル 池田香代子