健康的な自殺「自死という生き方」須原一秀

健康な人間が生き方として自死(自殺)を選んだという本です。



著者は2006年4月に、自身の哲学的事業として自死を遂げています。(享年65歳)



私が本を読んだ限りでは、自死した著者はとても幸せそうです。人生に疲れたとか悲観的な理由ではなく、本人の意思で積極的に死を選んだように見えます。



本の最後に家族が著者の自死について書いたあとがきがあるのですが"毎日楽しそうだった、お酒を飲むこと、銭湯に行くこと、運動をすることが好きで、友人も多く、還暦を過ぎてもエネルギッシュに、人生を楽しんでいるように見えた"といった調子で悲壮感がみじんも感じられません。



とても衝撃を受けました。そんな人間が本当にいるのかと驚きました。



本の内容は、著者の自死に対する考え方が9割、自死に至る一年前からの日記が1割という構成になっています。


「もともと明るくて陽気な人間が、非常にサバサバした気持ちで、平常心のまま、暗さの影も異常性も無く、つまり人生を肯定したまま、しかも非常にわかりやすい理由によって、決行される自死行為がある」ということを今から立証しようとしているのである。

自死を決行する人は、「人生に対する未練」を断ち切ったのではなく、人生を気にしなくなったのであり、「死に対する恐怖」は克服したのではなく、それも気にならなくなったのである。頭ではなく体の方が死にたくなってしまった。

「死を覚悟した人は危険である」というのは、本気で死を意識したことのない人が観念的に考えて出す結論ではないかと思う。自殺という人生の一大事を考えるとき、当人は自分の属する共同体を普段よりもより強烈に意識してしまうのではないか。


著者は、キューブラー・ロス(ターミナルケアの先駆者・精神科医)を例に挙げ、「死の受容」「自然死」の批判をしています。キリスト教徒としてのこだわりが彼女を苦境に追い込んだ、「体の声」に耳を傾けて、自死を遂行した方が良かったと思うと語っています。


「老化」と「自然死」を嫌って自殺する人は、正に「老化」と「自然死」だけを否定したいのであって、人生全体を否定しているわけでもないから、 厭世主義者でも虚無主義者でもない。

「老化と自然死を嫌って自死を決行する人」はむしろ人生肯定論者である場合が多いのではないか


世の中にはいろんな人がいるということを改めて教えられた本でした。



私には、妻も子どもも友達もいて人生を謳歌している人間が自死を決行するというのは理解できません。



自死は周りの人間に迷惑をかけるというのが通説だと思っていたのですが、著者の周りの人間はあまり迷惑していないようでした。(これも衝撃でした)



何と言っていいのか表現が難しいですが、とにかく悩まされる本でした。



最後に、気になった方の書評のリンクを貼っておきます
zisatu.html


須原一秀『自死という生き方』およびコメント - 感じない男ブログ




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